こんにちは(・ω・)ノ
このBlogオーナーの『みず』です(・ω・)/
どうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m
このページ(カテゴリ)を、みずの自己紹介のようなものに設定しとくコトにします(・∀・)!
わたしは以前やきう中心の、このようなブログを運営していたのですが、運営費の都合、
体調が執筆するには思わしくなくなったことから、畳んでしまった過去があります。
折角バズった記事もあったのに(´・ω・`)
それもあり『多分もう自分のブログ作るコトはないだろうなあ』って思ってたんですよねw
周りにも運営メンドクセェし(´・_・`) ……もう作りませんよとまで言っときながら、
何でまたBlogまた始めたの(・ω・)?て思った訳も含めて書くことにします(・∀・)!
(ちょっと長くなりそうなので、3回位に分けますね)
幼少期から大人になるまで、育てて貰ったボールパークとは?
生い立ちみたいな事から、つまらんですが綴っていきまつ(・ω・)
わたしは物心ついた時から特に母方家族の影響を受け、野球(以降、やきう)は自分の成長と共にありました。
なお、みず(・ω・)は足立区育ちです(※知る人ぞ知るガラが悪いところ)
巨人戦の東京ドームなんかは、さすがになかなか取れない。…だから、当時そこを本拠地としてた日ハムパリーグとか、ノムさんになるより前の神宮球場が『庭になる範囲』。
20代前半位まではプロレスも(格闘系含む)好きだったことから、後楽園ホールも、両国国技館もある
総武線沿線は、ヲタにとって夢の沿線であり、愛読書は週ベとかプロ野球ai+週刊プロレス…w
後は一級建築士でゼネコン勤務してたパパが、時々神宮球場の会社のシーズンシートをくれたので、それでママや叔母と観に行ったりもしました(好きな男の子を誘った事もあったなぁ…( = =) トオイメ)。
中学では2年二学期から色々あって、ほぼ不登校になってしまいまして。
欠席数がゆうに300日を超えてしまい、私立はアカンと言われ、「どうせ高校興味ないしなあ・・・」と思ってたんですが、周りに説得されて都立をひとつ受けたんですよね
そうしたら奇跡的に高得点を叩き出してしまい、そこそこの進学校に入学したのにやっぱり行かなくなりました。
思えば中3の時だけは学校(クラスが)楽しくて、そのお陰もあり進学できたけど、
高校入学後は、よくある『クラスメイトと趣味とか被らなくて話が分からないと、雰囲気についていけなくなる』
性格だったです(´・ω・`)
中3の時は趣味が被るクラスメイトが多かったし・・・
(Burrn!の回し読みとか楽しかったなぁ。あ、音楽雑誌です)
いつしか、買って貰ってた学生定期券をはるか乗り越すようになり、わたしはボールパークばかりに足を運んでて(時には映画館)、学校も勉強も家も放置して、バイトとやきうに+音楽…
中学に上がって区内の団地から、マンションに引っ越して以来、ママの様子が今でいう鬱に近かったことを、わたしもパパも認めたくなかったのではないかと思います。
一人娘の母親が専業主婦とかであれば、やはりママ寄りになり、わたしは確かにママ大好きな、甘えん坊な子供でした。
パパだってこんな未来を予想して、家を買った訳ではなかったはずだと思います。
高1の冬、ママは末期癌でたった3か月ちょっとで、あっという間に、家族の人生から、
そしてこの世から姿を消してしまった。
父との結婚記念日の20年の翌日だったって、後でパパが寂しそうに言っていたのを、まだ思い出す事ができる。
思えば、私たち家族3人でやきうに行ったのは、たった一度だけ。
私が小5の夏でハマスタでの横浜対阪神戦のホテルパック旅行。
阪神戦にしたのは、勿論生涯虎党だったママへの計らいだったはず。….うろ覚えやけど阪神はこの日大敗したので、ママのむくれっ面しか記憶はない。
わたしの未成年時代は、別に暮らし向きとして大変ではなかったけど、
わたしにとって誰より必要なはずの『母親』を亡くしたことは、
当時は応えてたのかなぁってのは確かにあったかもしれません(´・ω・`)
それはパパも分かっていたようで、お通夜の挨拶で
「経済的にはともかく、この子にはまだ母親が必要でした」
とパパが言った事をハッキリ覚えてるんだよなあ
もう何十年も経ったのに。
相変わらずな生活・複雑な父子家庭、でもやはり父娘。
ただママの亡き後、父上からの至上命令は
小遣い剥奪に加え『自分の遊び事や最低の食費は自分で何とかしなさい』
結局行けなかった高校を退学し、高認予備校に入るも、色々忙しくて勉強出来る環境とは言えなかった。
それでも何とか、予備校入学初年次に高認単位は全クリアで合格。
しかし食費も含めて小遣いもいるんで、当時は時給がなるだけ良い都心でバイト。
予備校は千駄ヶ谷にあったので、バイトや神宮には定期券で行った。
ちなみにウチ父子家庭だったけど、未成年期に家が貧乏で困った経験はしてない。強いて言えば親が晩婚で年が離れてた位。
ただパパが『俺はいつ死ぬか分からないから、一人になっても慌てないようにしろ』って腐る程に言うようになった。
何よりそれは、最愛の妻を失くしたパパ自身が一番そのくらい堪えていたからだと理解出来たのは、とうに年を取ってからだったが。
それでもパパはかなり放任主義?(今思えば、どう娘に接していいか不明だったのだろうが)で、私が朝帰りしようが、当時彼氏がいた事にも恐らく気づかないようにしながら、今まで疎遠だった父方の伯父さんに会わせたりした。
私はパパの親戚は苦手だった。
けど、四人兄弟の末っ子だったパパは一番年の近い一番下の兄(私の三番目の伯父)と特に仲良しで、離婚して一人だったその伯父にだけは、私も昔から娘のように優しくして貰っていた。
しかも父方系では一番の『やきう好き』。ママが亡くなったその年のシーズン、一度だけパパの計らいでその伯父さんとハマスタで観戦したことがあった。
その時の事今でも覚えとるけど、伯父さんが万札渡してきて、
『ビール買ってきて、一緒にみずちゃんはジュースでも』と言われ、買いに行って戻って来て、ルービーとお釣り渡そうとしたら
『お釣りいいよ、とっときな』
と9k近くの臨時収入まで貰ったことだった。
普段小遣い貰わないわたしが嬉しくないわけない←
まあ、参考書とか勉強で使うものだったりは買ってくれたし、パパはグルメなので美味いもん食いに連れてってくれたり、何か家の手伝いとかした際はお駄賃くれたりはしたけどw
高認検定は、科目にもよりけりだけど、言ってしまえば高校の進学校のテストに比べたら、いや比較してはならないくらいに難しくはない。
だからはっきり言って頑張って受けていない。
中学時代から部活はしてなかったし、不登校だったのに理由はあったけど、それを乗り越えましたとも言い難い。
やっぱりこの時点で頑張った経験は何もない……
話し合えない進路→受験当然失敗(´・ω・`)
それでも一応高校入学直後位までは、みずにも将来的希望進路はあった。
父親と同じ建築の道に行きたいなぁと、自分の中では思ってました。
小さい頃から父が設計図書く姿を見て、狭い団地の、母がこれでもかと散らかした部屋の中に所狭しと『住宅の元になる』材木からサッシや窓、ドアのカタログが山のようにあって、それをめくって育ったところがあったから。
しかし高校入学後からは勉強についていけない。ついていけない以前の問題で
…物理が(壊滅的に)理解できない(´・ω・`)
いや、もう私はコレが日本語なのか、あの教科だけは分からない()
建築学科に行くなら、物理と最低数学出来ないと厳しいし、その進路は呆気なく諦めた(早すぎ)
高校退学しても高認通過したので、予備校で大学受験コースには入れたけど、そうすると今度は勉強が分からない以前に
…自分の希望進路がまるで分からん(・ω・)
となって。
しかも普段ロクに対話しないから、パパと頭を付き合わせて進路について話し合う事も出来ない。
それにパパはみずに対してそんな『勉強しなさい』っていうヒトではなかった。
結局 被害妄想で言うなら、頼りたかったのに、頼れる相談出来るヒトがいなかったコトか…
みずはそもそもやる気というか、何かする!ってならないとモチベが上がらない。
好きなことを見つけないと、やりたい気持ちもマイナス100まで下がる性格(´・ω・`)
18かそこらで身近に話し合えず、大学でやりたい事が見つからない。
…目標もないから、モチベが上がらないまま、勉強もしなくなるの悪循環…。
当時は受験戦争がキツかったので、直ぐに脱落した。
まあだから、みずは深く考えずとりあえず大学行こうて勉強頑張るヒトは、単純にスゲェと思う(・ω・)
それでもパパは大学行けんかったからと言って、責めたコトもなく(´・_・`)
そして学生を諦め、みずのフリーター生活が始まります……(・ω・)
では次回・ドロップアウトなオトナへ
と続きます(・ω・)/
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