VS 小細胞肺がん(2023.5~2024.1)闘病

VS 小細胞肺がん

2024年1月12日、奇しくも私の母の命日。

小細胞肺がんとの診断を受けて以降一通りの治療を終えて、この日みずはお世話になった病院を退院することが(一応)できました。

一応がんサバイバー・みずの爆誕ですw

卵巣がんが元だった(らしい)母は、34年前のこの日、胸膜に転移したがんで、入院僅か4か月足らずで命を落としました。

残されたみずは当時16で、泣くことしか出来なかったけど、そんなみずもいまではすっかりおばちゃんになりましたw

父も鬼籍に入り、元々東京育ちだった私ですが、今では両親が眠るお墓のある福岡で暮らしています。母の死後、少しずつメンタルが壊れ、わずか20過ぎでドロップアウトし(最初の病気は寛解済)精神的に完全復活してないばかりか、身体の疼痛の病気(※線維筋痛症)まで発症し、ここ数年はほぼ動けない身と化してました。

いつどうなってもいいように、福岡に逆戻りしたのは2021年の暮れのことでした。そして一人暮らしの限界を感じ

障がい者専用のシェアハウスに引っ越したのが昨年のGW。一人暮らしでなくなったせいなのかわたしは自分が元気になっていくのかなと感じ始めていました。趣味のやきう観戦にも行きたい。今年こそ東京に遊びにいきたい。いろんなことをしたい。…

そう思ってきた私になぜか?にわか雨のようにやってきたのが「肺がんの疑いアリ」でした。

がんだと判明したら、毎日の生活が様変わりした

治療過程は今後少しずつ書いていきます(予定)が、胃がめちゃくちゃ痛くて病院行って胃カメラとレントゲンしたら、胃はなんともなかったのに、レントゲンで左の肺にまーるい腫瘍が。

その日からみずの生活は人生で体験した事がないものに変わっていきました。

paypayドーム傍の九州医療センターにすぐ転院。肺腫瘍というのはほぼ悪性なので、最初からガン疑いで検査検査。検査こんなにやるの?って検査疲れ。

そして小細胞肺がんであることを知り、それをどうにかするには、何をしないとあかんのか…。

ヘビースモーカーだったので、肺がんになったことについてのショックはなかったです。

ただ親しい友達に話すときとかは気を遣わせたり、申し訳ない気持ちにさせたりで心が軋んだりしました。

わたしは元超自殺願望のあるやばいメンヘラだったし(だからって)死ぬのが怖いとかではないけど

とりあえずもうちょっと生きないと、何も出来なさそうな感じだけはしたし

偶然に見つかったものだったから、まだ進行度合いが浅かったんです(ステージⅡb)。

だからか私には選択肢が枝葉に分かれていて、方法はいくつかあるところにいました。

それでも小細胞がんは正直、根治は難しいです。一回やっつけても再発率は高いです。

正直抗がん剤やってきた親戚や近親は多く、みな辛い思いをして殆ど断念してました。

私自身もガンになって延命治療とかかっこ悪いし、ガンになったらさっさとくたばろっか←って思ってた側の人間です。

でもそれはできませんでした。そんな勇気すらなかったです。

多分あの時、胃が痛くなって病院~とか行ってなかったら、今頃なんてわたしの左肺ではおっきなガンがスクスク育ち、ゲホゲホ咳もしていて(ちなみに肺含め気管支自覚症状は、ここまでずっとナシです)、そのうち手遅れであとちょっとで、みずの人生もジエンドだったと思います。

どっかからか知らんけど、みずの人生延長タイブレークの期間をいただいた(・ω・)?

抗がん剤やりますか?→ハイやります、って即答はできなかったですが(併せて放射線治療もしましたけど)、何度もここでもどこでも書いていますが、このままでは、生まれて以来何もかも頑張ったコトがひとつもない人生で終わってしまう。

さすがに来世で両親に怒られそうな気がしたし、自分でもそれはあかんよね(・ω・)?って思ったので、ひとつくらいそういう実績を人生に残すためにやっただけです。

それでも大して頑張ってないです。ただ寝てて放射線に打たれて点滴打たれて、副作用でくたばってただけですが。

それもこの退院をもって一旦終わりました。

感謝の気持ちを、やり切りたいコトにぶつけて生きていく。

抗がん剤治療の後に頭部の転移予防接種放射線治療もありましたが。

それから僅かいつの日か、再発するかもしれないです。

その時はもっと苦しいかもわからんし、今度こそどうにかなるかもわからんです。

それでもみずは、この期間に起きたこと全部わすれることは多分ない。

そしてこれからは余生を生きるのではなく、ボーナスステージだと思って生きます。

再発したらエンド。

だから延長タイブレークです。

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