小細胞がんと言われて、どう思い、何を選択したのか。【2023年7月】

VS 小細胞肺がん

2023年の6月末、私は担当医から小細胞肺がんのステージⅡbと告げられた。

そのK先生は当然のことながら治療すると思ったのか、抗がん剤や放射線の話をしてくるのだが、全く頭に入らない。

K先生は頭は切れるし、やり手の超医師向きな先生だと思うけど、いささかせっかちだからなのだろうか、

それとも私がこれからどうするか自分で分かってないからだろうか、

多分後者だったせいで、自分は何でか泣きそうになる。

グループホームのサビ管氏もいたので、人前で泣く事が嫌いな私としては泣きたくないが、それなのに感情が止まらないのだ。

それはガンになったショックでもなく、余命とかいうショックでもなく、これからなんの選択をすれば良いのか、まだ決められない自分が嫌だったから、泣いてしまったと思うのだ。

それに凄く治療が辛いイメージしかなかった。

自分がガンだと判明した時に、蘇った5年前の伯母に言ったコトバ

同じような事が自分の身内で起こったことがある。

5年程前、当時岐阜県内の施設内で伯母が転倒し、2か所骨折の大怪我をしてしまった。驚いたことは、伯母の怪我は何処にも知らされることなく、なんとそのまま放置されてる事だった(要するに施設の事故の隠蔽)。辛うじてその事を知り、急いで名古屋まですっ飛んでいった。因みに伯母はそれまで骨折など無縁だったし、ちょっと心臓が良くないくらいで入院とも無縁、83歳という高齢なのに腰痛すらない、割と身体は元気な方のヒトだった。

しかし高齢者は骨折をきっかけに体力が落ちることがある。

何とか施設から出して、最初の病院で愛知県内の大きな病院に紹介状を書いてもらう。伯母は思っていたより重症で、腰と大腿骨の骨折。大腿骨は人工にしないとダメなようだった。

転院して手術、経過は良好でリハビリ病院に転院するかという頃に、別の科の先生から話があるというので呼ばれた。

なんとなく嫌な予感は当たった。

手術を担当した整形外科医がレントゲンで偶然見つけたのが甲状腺がんで、すでにステージⅣだという。しかし、高齢なので個人差はあるが、2年は大丈夫だろうとのことだった。

伯母は当然、その後のリハビリを嫌がった。しかしいつまでも病院にいるワケにいかない。それより私が思ったのは、母の家族の中でこの上の伯母だけが、生活上一番楽な方法で生きていたことだった。特に身体が悪かったワケではない。私はこの伯母が頑張って何かしたことを知らない。上のお嬢様タイプなうちの母と、ジャーナリストとしてキャリアウーマンしている下の伯母の間にいることは、彼女の最大のコンプレックスだった。

しかしもう二人ともこの世にはいない。何を言ったら伯母はリハビリしてくれるんだろう。しばし考えて、出た言葉がコレだった。

「あなたが何か頑張ってる姿を知らないよ。見たことがないよ。人生で一度くらい最後に見せてよ。いつも他人のせいにする意地があるのなら、それくらい出来ないの」

それを医師もいる前で、泣きながら伯母に言った。言ったというより訴えた、頼んだという方が正しいかもしれない。

結果、リハビリに取り組んだ伯母は全く動けなかった状態が嘘かのように回復し、車いすも杖も使わず歩行出来るまでに回復した。

過去は、目の前のしんどさから、逃げる事が出来なかった理由になった

それじゃ、わたしはどうなんだろう?

ガンと言われ、治療選択する際思い出したのは伯母に言った事、そしてその後のことだ。結局回復した伯母も施設を移って以来、諸事情で疎遠になり、その約2年後には亡くなった。

わたし自身がこの人生で、何か頑張って乗り越えたコトってあったのだろうか?

…みんなはたから見たら大変だねとか頑張ったね、とか言ってくれる。しかし現実、わたしは何かひたすら生きてきたわけではない。

そんなんだからこの年齢の女性とは、年収から何から多分かけ離れていると思う。それぞれ自分を律して厳しく、社会の中で真面目に取り組んで今があるはずだ。それなのに自分はどうなんだろう。

確かに20前半からメンタルを病み、入退院の繰り返しで、寛解したのに別の病を抱え、伯母の面倒を見ていた頃には線維筋痛症だと分かって通いの仕事は一切できなくなってしまった。

その中でやりたいことは出来ていたとはいえ、だったらそんなに頑張ってやったことなのかと言われると、胸を張れない。家族がおらず評価対象もないので自己判断になるが、周囲よりわたしが「何もやっていない」のはあきらかだ。

生きている中でひとつだけでも、頑張ったということが出来るなら…

K先生に診断結果を言われて泣いたのは、余命のコトでもないし、肺がんであるショックでもない。

余命は放置しておけば、ワタシの年齢から言っても一年持たないかもというコトだったけど、ありうるので驚きはなかったし、ガンであることは覚悟していたし、何でワタシがなるのだろう、とも思わなかった。だいたいうちは特に母方が殆どガンに羅っているからだ。

先生が矢継ぎ早に説明することに、どうしても頭がおいつけす、パニックになってわっと泣いてしまった。いい年して恥ずかしいけども。意外とビビりなので、治療自体が怖い。自分の体力で乗り越えられるようなものなんだろうか。わたしが知っている限り、近親親戚でがんの治療を完遂したヒトはいない。治療が出来ない(施しようがない)か、やってもそのきつさから断念しているかである。

わたしは出来るのか即答が出来ず、先生も期間を与えてくれたので1週間弱考えてみることにした。

帰り路同席していたサービス管K氏は「治療した方がいいでしょ。運よく見つかったのに」という。それはそうだ。分かってはいるけれど。

治療する数か月と、治療しない数か月。単純にどちらかを選ぶ話だが、何度も気が遠くなった。ヘタレな自分に出来る気がしなかった。

そんな時思い出したのは5年前の伯母のことだった。今まで頑張ったことがない伯母が杖なしまで回復するなんて、あの時周囲は誰も思っていなかった。

でもそれを促したのはわたしだ。それなのに自分に甘くするわけにいかない。もう伯母はいない。誰も残っていないけど、残っていたら、ただ死に向かうことは反対していただろう。

わたしは数日後K先生からかかってきた連絡の際治療しますと返事をした。

放射線治療のための準備期間があるので実際治療はまだ先。それでも過去にああ言ったわたしがやらないでどうする…

ちょっとだけでもいいから頑張ってみよう。そう決めたのは福岡に降り続けた大雨がようやく上がる頃のコトだった。

それから一月後の8月3日。この日から放射線と抗がん剤にわたしは挑むコトになる。

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